micro Odyssey(1)  映像+通信=無限大

 (1990年 日本ソフトバンクに勤務時「Oh!X」誌に執筆)

  私のパソコンに関しての歴史はまだ浅い。発売されたばかりのPC-9801VXをすでに10年も昔からあるかのごとく使い始めたのが最初だ。そのときから私のコンピュータについての考えは、ビジネス中心の世間の流れとほぼ同じである。つまりパソコンとはデータベースであり、C言語はアセンブラよりいいと思うなどである。

 ところで先日、満開製作所祝一平氏から「パソコン少年はアセンブラと聞いただけでピクピクと心がときめく。それは本能なんだ」と聞いた。私はアセンブラと聞いても胸はときめかない。が、その気持ちはわかるような気もする。それは私が映画少年だったからかもしれない。映画少年とは、見るだけでは飽きたらず実際に映画を作る少年のことだった。まず、作ってみるという気持ちが先に立ち、「撮影」という言葉には心がときめいた

 社会は、価値観の異なるテリトリーのようなもので仕切られているといってもよいだろう。つまり、パソコン少年と映画少年、プログラマとカメラマンの価値観は異なる。ところが最近、異業種間の境界線がなくなりつつあるという話を聞く。また、これからのビジネスマンは自分と異なる世界を知れという教えもあるようだ。これらはテリトリーを仕切っている壁が壊れつつあるということだろうか?

 MITメディアラボでは、放送、コンピュータ、出版の「3つの輪」を合わせたような新しいメディアの構築を研究している。CD-I、デジタルビデオ、パーソナル新聞、ブロードキャッチ、ナローキャスト、喋る机、トーキングヘッズ…。「すべてのコミュニケーションテクノロジーは合体して変貌する苦しみを味わっている。それは全体と一つのものとして扱って初めて正しく認識できる」とはMIT教授ネグロポンテの言葉。メディアは、喋る時代、書く時代、コピーを作り出せる時代を経てデジタルの時代になる。このようなメディアでは、映像も、音声も、もしかすると匂いすら共通のデジタルデータとして扱えるようになるだろう。

 映画は、音楽や写真など様々なことを引き込んだ総合芸術である。デジタルデータを媒体としたメディアも、異なった価値観をもつ情報を同じ土俵に引き込んだ総合芸術である。このようなメディアは電話であり、TVであり、雑誌であり、パソコンであり、すべてを凌駕するものになり得る。そうして、それを作るのはパソコン少年や映画少年なのだ。それは、技術と芸術の統合という歴史でよくあるエポックメイキングのひとつと言っても過言ではない。

 世間では、このような複合的なメディアをマルチメディアと呼んでいるようだ。だが私が考える「マルチメディア」とは、むしと動画TV電話に近いのかもしれない。それは「彼は怒っている」という「情報」ではなく「怒りの感情」そのものを伝えることができるメディアである。たとえば、「こっちは雨なのでゲームでもしよう」と電話したとき、ディスプレイに映るのは、お互いの顔、窓から見える雨模様、パーソナルTVからのニュースや映画であり、BGMは実際の雨音とCDからの音楽だ。2人はネットワーク上で同じビデオを見ながら会話とゲームと楽しんでいる。電話が発明された当初は、長電話そのものを楽しむ人種など想像されていなかったと思う。きっと未来の恋人たちは、自宅、職場、旅行先からデータ交換を楽しむに違いない。

 

micro Odyssey(2) デジタル映像の夢

1990年 日本ソフトバンクに勤務時「Oh!X」誌に執筆)

 

 コンピュータで制御された部屋に観客がいる(データスーツのようなものを着ているのだろうか?)。部屋で観客に映像を見せる。観客はその映像を見て反応を示す。するとコンピュータが観客の反応に再度反応し、別の映像を作成し映し出す。つまり観客とコンピュータがお互いにフィードバックを繰り返すというものだ。とある本でこのような実験が紹介されていた。

 この実験はリプチンスキーなどビデオ作家の作品を彷彿させるものがある。当然のことであるが映像が目指しているのは「真実」を表現することだ。そして(非常に乱暴な表現であるが)、ドキュメンタリーなどでない、フィクション映像の真実追究へのアプローチは特撮(合成)とどっきりカメラに集約されると思う。前者は映像を構成する写真自体を本物らしくリアルに作り上げ、後者は嘘の設定をあたえそのリアルなリアクションによって真実をすりかえようとするねつ造だ。

ところで映像における「真実表現」のための技術は、映像メディアの「デジタル化」と「インタラクティブ化」が実現されたら飛躍的に向上するのではないだろうか。

 もし完全にデジタル化が実現されれば、何度もダビングしても画質が劣化しない→何重もの合成が可能→ブッシュがゴルバチョフにパンチを食らわせる「実写の映像」が作れる。これはヘル・グラフィックスサイテックスなどのイメージWS(3000dpiA1サイズ程度のフルカラー画像)を使えば今でも可能だ。これらの画素数はもはや印刷物のフィルム解像度を越えている。この技術を駆使すれば(リプチンスキーの)「イマジン」程度はデスクトップで作れるはずだ。

  またインタラクティブな映像メディアができたら、ブッシュがゴルバチョフに電話する→ゴルバチョフは朝起きたばかりで顔が腫れている→リアルタイムに合成された映像に肉声を重ねながら送る、といったことが可能だ(リップシンクのタイミングが難しいが)。これは大量のデータを送る回線があれば解決する。光ファイバーでは毎秒5億ビットのデータ転送ができるので、毎秒30コマ程度は楽勝だ。

  「この100年、人は写真に写っているものは現実に存在するものだと思い続けてきた。しかしそういう時代は歴史的に見て例外的なのだ」という意見がある。同感だ。本来メディアとは加工でき、加工した部分は作った人以外には気づかれてはいけないのだ。写真の編集(修正)ではなく「本物作り」のために行わなればいけないし、「嘘はいくらでもつけるけど嘘をついてはいけない」という文章では値前のことが映像メディアにも適応されなければいけないのだ。これを実現してくれるのがデジタル技術だ。放送局ではクルマキーを使った映像合成が当然のことのように行われているが「デジタルの嘘」にはかなわない。

  このような映像環境がパーソナルなレベルで実現したらどうなるだろうか? きっと手書きの文章が本になるように、自宅で作曲した音楽がレコードになるように、個人で作った映像作品がそのまま市場に流せるようになるのではないだろうか(「編集」できるようになるからだ)。この映像における「Art Decade」の到来はそんなに遠くないような気がする。  

 

ビデオ製作の、プロとアマの壁。ついに編集者からディレクターに転身。
第15回東京ビデオフエスティバル大賞1992年 執筆)
太田慎一

40歳を超えてデビューした松本清張が、アマチュア時代の1952年に轨筆した「或る『小倉日記』伝」などの作品が、数十年たっても読まれるというのはうらやましいことだ。去年、氏が亡くなったとき、そう思ったことがある。
自主製作した作品を世に出すということについて考えてみると、映像作品はそのメディア特性から、かなりのハンディキャップを背負っているのではないだろうか。
たとえば文章であれば、原稿用紙に害きなぐったものであろうが、安物のプリンタで印釗したものであろうが、印刷屋で綺麗に活字を組んだものであろうが読者にとっては関係ない。もちろん内容次第では、それをそのまま出版することも可能だ。

スチール写真の場合、ブロが使っている35ミリフィルムのカメラでさえ数万円で買うことができる。また、撮った写真をそのまま写真集にすることは夢ではない。
音楽の場合にしても、自分のバンドのオリジナル曲をCDで発売するために、もういちど同じように演奏することは決して難しいことではない。

しかし映像作品の場合、そうはいかない。VHSなどのホームビデオで撮影した作品をテレビで放送したら、視聴者の関心は作品の内容より画質のほうにいってしまうに違いない。かといってブロレベルの画質を求めるとなると、個人では負担できないほどの高額な費用が必要だ。もちろん、ホームビデオで撮影したカットと同じ映像を、高画質のカメラで再び撮影することなど不可能だ。また、ホームビデオの場合、「推こう」を重ねるということも非常に困雖だ。映像における推こうとは編集=ダビングを繰り返すことだからだ。

映像の世界におけるブロとアマの違いは作品の内容だけではなく、そういうハードの違いも大きいと実感している。
受賞作の「韓国へ行った」は構想から入れると3年程度かかった。
その間、韓国へは3回ほど撮影に行った。もちろん、仕事の合間にである。製作開始のときは出版社で雑誌編集の仕事に携わっていたのだが、「韓国へ行った」の製作を始めてからしばらくして、名刺上の屑帯きはビデオディレクターになった。つまり、作品製作の途中からプロになったわけである。
しかし、「韓国へ行った」を作っている限りにおいては、自分がプ口とかアマとかいうことを意識したことはいちどもない。自分が作りたいものを作りたいように作ったからだ。それだけに愛着がある作品であり、多くの人に見てもらいたいと思っていた。
国際的なビデオコンクールである東京ビデオフヱスティバルで高い評価をいただいたことは、本当にうれしい。今後もブロとかアマとか関係なく、作品を作っていきたいと思っている。(おおたしんいち)