ビデオ大賞「韓国へ行った」太田慎一(31歳)
作家的力量感じさせる
「大変な才能、若い人たちの制作している映画、テレビをよく見ているが、あなたの才能は抜群だと思う」(羽仁進)
ビデオ大賞「韓国へ行った」太田慎一(31歳)
「「韓国へ行った」の太田さんの才能はすばらしい」(羽仁進)
「「韓国へ行った」がすばらしかった。ここ数年間でこういうものでは突出している。作者は虚構の中で真実をんも取り出している」(大林宣彦)
ビデオ製作の、プロとアマの壁。ついに編集者からディレクターに転身。
第15回東京ビデオフエスティバル大賞(1992年 執筆)
太田慎一
40歳を超えてデビューした松本清張が、アマチュア時代の1952年に軌筆した「或る『小倉日記』伝」などの作品が、数十年たっても読まれるというのはうらやましいことだ。去年、氏が亡くなったとき、そう思ったことがある。
自主製作した作品を世に出すということについて考えてみると、映像作品はそのメディア特性から、かなりのハンディキャップを背負っているのではないだろうか。
たとえば文章であれば、原稿用紙に害きなぐったものであろうが、安物のプリンタで印氓オたものであろうが、印刷屋で綺麗に活字を組んだものであろうが読者にとっては関係ない。もちろん内容次第では、それをそのまま出版することも可能だ。
スチール写真の場合、ブロが使っている35ミリフィルムのカメラでさえ数万円で買うことができる。また、撮った写真をそのまま写真集にすることは夢ではない。
音楽の場合にしても、自分のバンドのオリジナル曲をCDで発売するために、もういちど同じように演奏することは決して難しいことではない。
しかし映像作品の場合、そうはいかない。VHSなどのホームビデオで撮影した作品をテレビで放送したら、視聴者の関心は作品の内容より画質のほうにいってしまうに違いない。かといってブロレベルの画質を求めるとなると、個人では負担できないほどの高額な費用が必要だ。もちろん、ホームビデオで撮影したカットと同じ映像を、高画質のカメラで再び撮影することなど不可能だ。また、ホームビデオの場合、「推こう」を重ねるということも非常に困雖だ。映像における推こうとは編集=ダビングを繰り返すことだからだ。
映像の世界におけるブロとアマの違いは作品の内容だけではなく、そういうハードの違いも大きいと実感している。
受賞作の「韓国へ行った」は構想から入れると3年程度かかった。
その間、韓国へは3回ほど撮影に行った。もちろん、仕事の合間にである。製作開始のときは出版社で雑誌編集の仕事に携わっていたのだが、「韓国へ行った」の製作を始めてからしばらくして、名刺上の屑帯きはビデオディレクターになった。つまり、作品製作の途中からプロになったわけである。
しかし、「韓国へ行った」を作っている限りにおいては、自分がプ口とかアマとかいうことを意識したことはいちどもない。自分が作りたいものを作りたいように作ったからだ。それだけに愛着がある作品であり、多くの人に見てもらいたいと思っていた。
国際的なビデオコンクールである東京ビデオフヱスティバルで高い評価をいただいたことは、本当にうれしい。今後もブロとかアマとか関係なく、作品を作っていきたいと思っている。(おおたしんいち)
1996年11月には「韓国へ行った」がRKB毎日放送の木村栄文によりJNN系列で「韓国へ行った 太田慎一の世界」として太田慎一のインタビューなどと併せて放送された。