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21世紀に響く感動の歌声  日本/コリア歌曲集

夜明けのうた/イムジン江(イムジン河)

うた 田月仙(チョン・ウォルソン)

この歌姫は、荒れ果てた荒野へ向かう。

とすれば、その踏みしめる足元から、

「むごさ」や「焦げつき」に耐えた

幾つもの歌の芽が伸びてくるのであろう。

聴衆よ、田月仙の腕に抱かれ、

その歌声に悶死しなさい。 (唐 十郎)

ビクターエンタテイメント VICC60128

 

 

1 朝つゆ(朝露)

 長い夜が明けて 草葉に宿る
 真珠よりも美しい 朝つゆのように
 私の心に 悲しみが宿るとき
 朝の丘にのぼり ちいさくほほえんでみる
 太陽は墓の上に あかく昇り
 真昼の燃える暑さは 私の試練か
 さあ 行こう あの荒れはてた広野へ
 悲しみをすべて捨て 私は行く

韓国の伝説のシンガーソングライターとして知られているキム・ミンギ(金敏基)が1970年、19歳のときに作った作品。1987年に解禁され、1995年に韓国で行われたKBS半世紀歌謡祭では国民の愛する歌の1位に選ばれた。 チョンウォルソンは1970年代から「金冠のイエス」と共にこの歌を歌っている。1997年、ソウルで行われたチョンウォルソンの初めてのソウルでのリサイタルには作者・キム ・ミンギ(金敏基)も訪れた。また1998年にはキムミンギやキムジハを日本に招聘し彼の歌を元にした音楽劇を上演するなど交流が続いている。

2 夜明けのうた

 夜明けのうたよ 私の心の昨日の悲しみ流しておくれ
 夜明けのうたよ 私のこころに若い力を満たしておくれ

 夜明けのうたよ 私の心のあふれる思いをわかっておくれ
 夜明けのうたよ 私の心に大きな望みを抱かせておくれ
 
 夜明けのうたよ 私の心に思い出させる故郷の空

1998年10月、田月仙は東京都とソウル市の友好都市10周年の親善大使として、韓国で「赤とんぼ」や「浜千鳥」など日本の歌を披露した。しかしこの「夜明けの歌」は韓国政府がまだ解禁されていない大衆歌謡にあたると判断。言葉のないヴオカリーズで歌い思いをこめた。

3 懐かしい金剛山

 誰の主宰であろうか 清く美しい山 懐かしい万二千峰
 言葉は無くとも 今こそ自由万民襟を正し
 その名を再び呼ぶ われらの金剛山
 数々万年美しい山 行く事もできず幾年がすぎたか
 今日こそ訪れる日が来たのか! 金剛山は呼んでいる
 
 懐かしい山の峰々 昔のままであろうか 白い雲
 そよ風も無心に行くのか 足の麓に山海万里 見えるでない
 我々みんなの悲しみが癒える時まで
 数々万年美しい山 行くこともできず幾年が過ぎたか
 今日こそ訪れる日が来たのか! 金剛山は呼んでいる

韓国歌曲のなかで最も人気のある歌の一つ。金剛山は朝鮮民族の誇る名勝地。しかし現在は分断された半島の北朝鮮の領土。韓国人にとって金剛山は死ぬ前に一度は行ってみたい場所であった。1998年に現代グループにより金剛山観光 が実現したが…。

4 イムジン江(イムジン河)

 イムジン江の清い水は 流れ流れ行き
 水鳥は川を 自由に渡り 飛んでいくのに
 私の母なる故郷へ 行きたくても帰れない
 イムジンの流れよ 悲しみのせて流れよ

行進曲のような歌が多いとイメージされる北朝鮮の歌だが、実はメロディの美しい歌が多い。中でもこの歌は朝鮮戦争が終わって間もない頃に作られた名曲の1つ。 「イムジン江(臨津江)」は北と南の間流れる川。韓国では「イムジン江」と発音が違う。歌詞は北朝鮮から見たら38度線の向こう側である臨津江に行きたい(帰りたい)という内容で「懐かしい金剛山」と逆である。「イムジンガン」・「リムジンガン」・「イムジン河」・「リムジン河」など様々な呼び方で歌われている。 分断によって親兄弟も自由に会うことができない気持ちを歌った歌である。チョンウォルソンは学生時代からこの歌を歌い、1983年のデビューリサイタル以来、イムジン江を様々な公演で歌い続けてきた。また1997年にはまだ北朝鮮の歌が禁止されていた韓国でこの歌を歌った。この歌は元々は歌曲の形式で作られており北朝鮮でも声楽家が歌うのが一般的。このCDで も20年歌い続けているオリジナルの歌曲の形で歌われている。

5 鳳仙花(ポンソナ)

 間垣の陰の赤い鳳仙花よ
 佇むお前の姿が悲しい
 長い夏の日美しく花咲く頃
 可愛い乙女たち その姿 愛でたよ

 いつしか夏が去り 秋風そよ吹く
 美しい花びらをむごくも侵せしに
 花落ち老い果てた お前の姿いたわしい

 北風寒い雪冷たく お前の姿なくなれど
 平和への夢見る その魂ここにあり
 のどかな春風に もう一度よみがえれよ

日本植民地時代に作曲された朝鮮最初の芸術歌曲。見た目は可憐だが、熟すると実を破裂させ種子を四方に飛び散らせる鳳仙花は日本の侵略への抵抗精神の象徴だった。「鳳仙花」が民族の歌として広まったのはソプラノ歌手・金天愛(キム・チョネ)による。このCDでは最近では珍しくオリジナルの9/8拍子で歌っている、

6 アリラン

 作詞/作曲
 アリラン アリラン アラリヨ
 アリラン峠を越えてゆく
 わたしを捨てて往く君は
 十里も往かずに足が痛む
 蒼い空には星も多く
 わたしの胸には悩みも多い

朝鮮民族のシンボル「アリラン」、朝鮮半島のどの地方と言ってもよい程、その土地独自のアリランがある。「珍島アリラン」「密陽アリラン」「江原道アリラン」などそれぞれ歌詞も旋律も異なっている。「アリラン」の語源も様々な説がある。 チョンウォルソンは韓国を代表する歌曲番組MBC「歌曲の夕べ(歌曲の夜)」に日本から唯一二度出場し、アリランを歌い感動を呼んだ。

7 高麗山河わが愛

  ノ・グァンウク(盧光郁) 作詞/作曲

 南であれ北であれ
 いずこに住もうと
 皆同じ
 愛する兄弟ではないか
 
 東や西
 いずこに住もうと
 皆同じ
 懐かしい姉妹ではないか

 山も高く 水も清い
 美しい高麗山河
 我が国 わが愛よ

チョン・ウォルソン(田月仙)が歌い続けている歌。1985年 ピョンヤン 1994年 ソウルとチョン・ウォルソンは在日コリアンで初めて38度線の両側で舞台を踏んだ。北も南も同じ祖国だと実感したが分断の現実も再確認した。そしてソウルで「高麗山河わが愛」と出会った。日本に帰国後、歌に共感を持ったウォルソンは様々な場所で「高麗山河わが愛」を歌い続けた。この歌を聴いた多くの在日コリアンが分断され会うことができない家族や親戚のことを思い涙ぐんだ。しかし歌の作者はわからなかった。
1996年 ウォルソンはロスのオーケストラに招待された。偶然にも指揮者は「高麗山河わが愛」の作者を知っていた。作者は在米コリアンの歯医者 ノ・グァンウク(盧光郁)。1918年に南浦で生まれ、ソウルで育った。植民地時代は音楽家として活動したが朝鮮戦争終結の年、南北の諍いを逃れるように渡米。歯科医となった。しかし頭の中には朝鮮半島しかなくある日「高麗山河わが愛」を一息で書き上げた。彼の歴史も朝鮮半島の分断の歴史そのものだった…。
在日の歌手と在米の作者。祖国を離れた経過は異なるが、その歴史的差異を乗り越えて2人は出会った。歌だけが年をとらないで若々しいまま生き残ったのだった…。

8 花

 春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が
 櫂のしずくも 花と散る 眺めを何に 喩うべき

 見ずやあけぼの 露浴びて われにもの言う 桜木を
 見ずや夕れ 手をのべて われさしまねく 青柳を

 錦織りなす 長堤に 暮るればのぼる おぼろ月
 げに一刻も 千金の 眺めを何に 喩うべき

9 浜千鳥

 青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が
 波の国から 生まれ出る 濡れた翼の 銀の色

 夜鳴く鳥の 哀しさは 親を尋ねて 海こえて
 月夜の国へ 消えていく 銀の翼の 浜千鳥

10 赤とんぼ

 夕焼けこやけの 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か
 山の畑の桑のみを こかごに摘んだは まぼろしか
 十五でねえやは嫁にいき お里の便りも絶え果てた
 夕焼けこやけの 赤とんぼ とまっているよ 竿の先

11 故郷

 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

 いかにいます父母 つつがなしやともがき
 雨に風につけても 思いいずる故郷

 志を果たして いつの日にか帰らん
 山はあおき故郷 水は清き故郷

12 正調アリラン(長いアリラン=キーンアリラン)

 アリラン アリラン アラリヨ
 アリラン峠を越えてゆく
 アリラン峠に停車場を作り
 あの人の帰りを待ち続ける
 万景蒼波に浮かぶ船よ
 そこに錨をおろしておくれ
 道をお尋ねしましょう
 アリラン アリラン アラリヨ
 アリラン峠に私を連れていっておくれ

13 常緑樹

 あの野原の 青い松の木を見よ
 誰一人 かえりみる人もいないのに
 雨風に打たれ 吹雪にうもれても
 葉の先々まで 真っ青にそびえてる

 悲しくつらかった 過ぎし日々が
 二度とくりかえす事のないように
 苦しみも乗り越えよう
 荒れた野原の 松のように

 たとえ私たちの力は 小さくとも
 手と手を取りあえば 涙があふれる
 たとえ私たちの行く道が 遠く険しくとも
 突き進み 必ずや 勝つであろう

「朝つゆ」の作者・金敏基の曲。金大中大統領時代とIMF経済危機の韓国でリバイバルヒットした。

日本コリア歌曲集「夜明けのうた・イムジン河」によせて

田月仙(チョン・ウォルソン)の歩むところ

唐 十郎(からじゅうろう)

 この神経質な廃都の中で、田月仙ほどの巨(おお)きな女性とめくるめく歌声をわたしは知らない。
 初めて舞台の彼女を観たのは、お茶の水にある小さな会館であったが、舞台を一歩すすんだとたんに、張り詰めたヴァリアー(膜)を抜けるように、切るように、そのアウラが現前化してくると思った。
 1997年の<薔薇物語>のパンフレットには、両手をひろげた田月仙の写真が載っており、その止まった物腰は、果てしなく伸びやかであるが、それが、舞台で動き出すと、辺りを巻き込み、観客の目を釘づけにして、とてつもなくスケールの大きな世界へ引きずりこんだ。
 その歌声は、都市の細いビル裏にも潜りこむが、海にも向かい、対岸の異国を巡って散った花、暗雲、今も迷う人々の声とも重なっていく。そして、いつか、わたしは、歌っている彼女の足並、その足元に目が吸いつけられていた。
 その立ち姿は美しい。が、そのリュウとした立ち方よりも、彼女の思いが、何を踏みしめ、震えながら何に声をかけているのかが、その魅力を解く鍵であるように思えた。
 この歌い手は、歌いつづけるべき<座標軸>を探って歩んでいる。
 この度歌われている歌詞カードを読みながら、「朝つゆ」の終章を見ると、歩みのアンソロジーとなっている二行が目にとびこんできた。
 「さあ 行こう あの荒れはてた広野へ
  悲しみをすべて捨て 私は行く」
 その前の一行は、真昼の燃える暑さが、自分にとっての試練でもあるという。
 とつぜん、わたしは、ボードレールの詩を思い出した。それは、学生時代に読んで忘れられない一つの詩であったが、「ジャンヌ・マリー」という。
 「ジャンヌ・マリーの手は黒い
  夏が 焦がした
  黒い手だ」
 <文学と悪>の中に引用されていたこのミステイフイケートな一本の黒い手が、なんの実効性を持つのか分からなかったが、田月仙の歌うその声の中に現れるとなると、なんとも嬉しい<デ・ジャヴ>(即視の夢)を感じるではないか。
 つづいて「鳳仙花」の中にも気になるものが現れた。それは、夏の日に見た乙女たちのような花びらの、変わりゆく姿を述べたものだ。
 「美しい花びらをむごくも侵せしに
  花落ち老い果てた お前の姿いたわしい」
 これは、フランソワ・ヴイヨンの「去年(こぞ)の雪、今、何処(いずこ)」の復活でもある。
 そうしてみると、田月仙の歌う悲歌(エレジー)の源は秋風に吹き飛び、忘却されていくようなものではない。
 なにもないものの所へ、誰が行くものか。この歌姫は、荒れ果てた広野へ向かう。とすれば、その踏みしめる足元から、「むごさ」や「焦げつき」に耐えた幾つもの歌の芽が伸びてくるのであろう。
 聴衆よ、
 田月仙の腕に抱かれ、その歌声に悶死しなさい。

唐十郎(からじゅうろう)劇作家

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