総合演劇雑誌「テアトロ」(199 9/2) 「今月選んだベストスリー」 西堂行人
金芝河(キム・ジハ)がやって来た。1974年に逮捕され、死刑判決を受けた「韓国の抵抗の詩人」が、何と初来日を果したのである。今回の来日では講演会や彼を囲んでの話し合いが数多く持たれたようだが、12月6日の一日だけ東京のイイノホールで記念公演が行われた。
当日は年輩の在日韓国人や唐十郎ら日本の古くからの支持者も多くかけつけ、会場はある種の熱気に包まれていた。そこに韓国から金芝河という肉体が降り立った。
第一部の『五賊」は韓国でも名高い「マダン劇」の理論家でパンソリの名手でもある林賑澤(イム・ジンテク)によって演じられ。
第二部『われわれはどこに行くのか」は新宿梁山泊の金守珍の演出による創作音楽劇で、金芝河の詩が集団の朗読で読み上げられ、オペラ歌手・田月仙(チョン・ウォルソン)の歌も圧倒的だった。
ところでわたしは、ものものしい厳戒体制のなかで、今なお熱狂的に迎えられる金芝河のカリスマ性、人びとに力を与えていく存在に魅せられた。
彼の詩や言葉は単刀直入で、物事の本質にぐさりと突き刺さる。その言葉は決して華農なレトリックが駆使されているわけではない。むしろ野暮ったく、愚直とも言える。だからこそ、この言葉の届く範囲は広く、底知れぬほど深いのかもしれない。
彼はしばしば「抵抗の詩人」と呼ばれ、韓国の民主化闘争のシンボルでもあった。だがこうした政治的レッテルとは別に、金芝河の詩人としての力こそ見直す時期に来たのだろう。
以前、わたしは70年代の民主化闘争の時代に学生たちに歌い維がれたフォークソングの「セノヤ」という曲にひどく魅せられたことがあった。だがこの歌詞の内容を知ってわたしはちょつと意外に思った。それは政治的主題とかけ離れて、韓国の美しい木々や山々を歌った内容だったからである。一貫して変わらぬものこそ、信じるに足るのである。それが抵抗につながるのだ。金芝河の詩もまたそうしたものだろう。
金芝河の姿に、わたしはハイナー・ミエラーのイメージがかぶってきた。
Chon Wolson officilal Website www.wolson.com