この公演で、ロシア人男性が歌うバリトンの美しい声が私の心をとらえた。中学校の頃からロシア語を習った私にも、それは耳慣れない歌だった。初めて聞くロシア語の『アリラン』だった。
必ず帰ってくると誓って
あの人は、涙を流し 緑をかきわけ
アリラン峠を越えていった
悲しみの時が流れ 季節は巡りゆけども
あの人は帰らない
そして、悲しい歌だけが アリラン峠を越えていく
アリラン、アリラン アラリヨ
1. Уходя, обещали вернуться...
И горючие слёзы жены
Орошали зелёные травы
На холме Ариран.
Ариран, Ариран,
Ариран, арариё.
2. Уходили мужья, уходили,
И унылые годы текли,
И роняли цветы лепестки
На холме Ариран.
Ариран, Ариран,
Ариран, арариё.
3. Миновали года, миновали.
Шли дожди и метели мели...
Миновали года, миновали
На холме Ариран.
Ариран, Ариран,
Ариран, арариё.
4. Снова плачут корейские жёны,
И, как в древности, слышит Чосон
Эту скорбную, скорбную песню
На холме Ариран.
Ариран, Ариран,
Ариран, арариё.
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歌が終わると、静かに語りはじめた。
ある日、カレイスキーたちに読まれている『高麗新聞』に、ロシア語で書かれた詩が紹介されていた。
『アリラン』だった。詩を書いたのは、モスクワに住むカレイスキーのメンドクウク。キム・サンホは、すぐに連絡を取り、その詩に曲を付け歌にした。
「韓国朝鮮人は、どこへ行っても自分の国を絶対に忘れません。私たちは、『アリラン』と聞くと、みんな愛国心がわいてくるのです。」
キム・サンホの両親は、朝鮮半島南部出身。先祖代々暮らしていた土地には日本人が暮らすようになり、職を求めて「樺太」(現在のサハリン)に移住した。
そして、一九四三年にキム・サンホが生まれた。
「一九四五年に戦争が終わり、日本人はみんな帰っていったけど、私たちの国は南北に分断され、どちらにも帰ることはできなかった、そのままサハリンで暮らすしかなかったんです。」
7歳までは「かねまつとみしげ」と名乗っていたが、学校へ通うようになってから「キム・サンホ」と名乗るようになった。ロシア語の名前はもっていない。学校を卒業後、ハバロフスクに移住した。
戦前、日本人としてサハリンに連れてこられ、戦後ソ連領になってからも放置され、故国には帰れず各地に散らばった人々……。
慎重な物腰で、私の目を見つめながら小声で話す彼の言葉の端々に、カレイスキーたちの思いが込められているように感じた。
「私は朝鮮人だから朝鮮の名前です。両親はどこへ行っても朝鮮半島出身であることを忘れるなと言っていたし、私も子供達にそう話しています。
見た目ではどうあろうと、心の中には韓国朝鮮の文化があります。私がサハリンで生まれても、祖先から代々受け継いできた「族譜」があります……。われわれの祖先は、生きる道を求めてアリラン峠を越えていったのです。そして白髪になっても祖国へもどることは出来ませんでした。」
キム・サンホは、ロシア語のアリランを、著名なロシア人歌手に歌わせることで、この地にカレイスキーがたくさん住んでいるということが、広まるのではないかと考えた。
「でも外国人に『アリラン』の心は表現できません。ここには歌える人はいない。歌えても私には気に入りません。」
その日私たちは、時間が経つのを忘れて、変わるがわるピアノを弾き、歌を歌った。
短い旅の日程を終え、ハバロフスクを去る日、空港で手続きをして出発の時間を待っているところへ、キム・サンホが現れた。
「キム先生、わざわざ来ていただいてありがとうございます。」
お礼と別れの挨拶を告げる私に、キム・サンホは、静かに告げるのだった。
「こうして出会えたのだ。いつか私の作品集を歌ってください。そしてアルバムにしましょう。」
私は、手渡された手書きのアリランの楽譜を丁寧にバックにしまい、帰路へと向かった。
ゲートに入る手前でもう一度振り返ると、立ちつくすキム・サンホの姿が見えた。
私は、背伸びをしながら、大きく手を振った。
「いつかきっと」とつぶやきながら……。 |