金芝河初来日に寄せて 唐十郎
パンソリの声は、よじれた縄が、急に動きだしたようだ。這ってのたうち、こちらの耳へ、ニヨロニョロと入ってくる。この言葉と舌の操り手品は、かつて、山の上から時の為政者に向かって投げらている。唱い攻めの力も秘めている。では、どのように攻めるのかというと、笑い殺しによってだ。
六日、東京・内幸町のイイノホールで上演された「五賊」一部は、パンソリの唱い手、林賑澤(イム・ジンテク)によって始まり、一九七〇年に発表されたその詩「五賊」の、うねる文体が、パンソリ流に唱われた。二部は、金守珍の演出による構成舞台であったが、一部の一点集中場面と違って、間口の広い舞台を、多くの群れで使いこかし、客席に、不思議な動乱を与えた。
奥になだらかな坂があって」白い斜線が、その坂の縁に塗り込められている。それが、左手から右手に伸びて、まるで延長された時計の白い針とも見えるのだが、この一本のみ線を見ていると、妙なめまいを感じた。
その線のよっていく丘の方を、逃げまどう人々は未来と見上げているのだが、そちらが未来の証しはどこにもない。殊に、金芝河の詩を歌う歌姫、・田月仙(チヨン・ウォルソン)が、未来と見上げた丘の上から降りてくると、歌われている金芝河の詩が、動乱のソウルであるためにそちらが過去とも見える。どこから来て、どこへ逃げるとも分からない一人の青年がトラックを開けると、中に、石ころばかりが詰まっている。
その石に爪を当てると、固めた砂のように、粒子がポロポロと落ちる。こうした気がかりな一点が、坂の下に展開すれば、石ころ一つに、何の過去が整理されたのか、また整理されるわけもなく、今も散乱しているのか分らなくなる。
この時間の〈はざま〉というものを、いかに形象してみせるのかが、金守珍の狙いでもあった。この二部を観劇している金芝河を前にして、なんと憎いことをするではないか。群れによって謂われたのが、”ぼくの胸で蝉が鳴く〃であり、沁みとうるように伝わってくる一篇のテーマとなった。金芝河氏と話す機会があって、舞台の感想を聞いてみた。
パンソリの「五賊」には、いくらか照れて、きりに七〇年代のものだからと笑っていた。金守珍の演出した構成舞台のことたなると身を乗り出して、ニつ感じたことがあると言った。一つはと、指も突きだして、その舞台には〈現在の私〉への批評があるように見た、と言う。その批評という言葉は意外であり、何が、彼にそう見せたのか、もう一度、舞台をフラツシュバックさせてみたりもした。
蝉の詩以外に、群衆によって「記憶は過去の死骸」という言葉が連発される。過ぎていった幻像(イリユージョン)が、それだけ荷酷でおっためかと、叫ぶ人々を見つめるしかないのだが、この群れは、金芝河が体験したある時期に接近しながら、その一フレーズを舌にのせてもいる。それは、独房の牢獄生活の中で、彼を苦しめた〈壁面症〉と、その呪縛から逃れようと闘った六年のことである。〈壁面症〉とは、コンクリの天井が柔らかく変形して、のしかかってくる状態のことだと、四日の川崎での講演で語った。そこから抜け出られたのは、鉄格子の間から飛んできたタンポポの毛を見た時のことであり、それが唯一、針の穴のような出口ともなったと言う。
それより、〈現在の彼〉が生まれたのだが、機つかの批評は、独房六年の中で闘っている彼こそが、もっとも金芝河らしいと述べ、タンポポの毛から始まった生命思想を運動をやや拒む。六日の構成舞台を見て、ある種の批評を感じたというのも、おそらく、今の彼が、「記憶は過去の死骸」という一フレーズから、もっと遠い所に来ているからであろう。が、金守珍の演出は、過去の一時期に連れ戻すためでなく、時間のはざまを形象することを企らんでいたのだ。
もう一つの感想は、やはり演出の造形力についてであった。群れが熱く交叉して、散った後に、残ったものが、無機質な白い坂と、石ころの影だけであるというのが、どうしようもなく、僕らを狼ような気持ちにさせるのだった。
唐十郎