ドラマチックな歌声と華麗な舞台姿で、多くの観客を魅了してきた。韓国での知名度も抜群で、2002年のサッカー日韓共催ワールドカップ記念オペラ「春香伝」では日韓の公演で主役を演じた。加えて、韓国と北朝鮮とを結ぶ文化大使の役割も任じてきた。この2月には20周年記念リサイタルが実現するが、今日も日韓の架け橋となるべく、多彩で精力的な活動を続けている。
[聞き手]田中良幸◎本誌編集長
(c)Lee Seo
2月28日に20周年記念リサイタルが行われますが、この20年を改めて振り返っていかがですか。
何だか、アッという間に過ぎてしまったという感じがしています。20年間、ある時は孤独であったし、それなりに苦しい時もありました。でも、2002年にワールドカップの記念オペラ「春香伝」の主人公で韓国の国民的なヒロイン“春香”を、日韓で演じた時は、私が歌い続けてきたことへの、1つのプレゼントのように思えましたね。
韓国には素晴らしい歌曲がたくさんあるのですが、私がデビューした20年前は、日本では韓国の歌曲を聴く場所もありませんでした。そこで、最初のリサイタルの時から機会があるごとに韓国の歌を自分で研究し、独自の解釈で紹介するようにしてきました。それがようやく花開いたような実感を持っています。日本の皆さんに、「韓国にはこんなに素晴らしい歌曲があるんだ」という風に喜んで頂き、広まってきたのでとてもうれしいです。
2002年の日韓共催ワールドカップを通じて、私たちの視野がアジアというものに広がり、アジアで生きているという共通概念を持つことができるようになったのではないかと思いますが、音楽界にも影響はありましたか。
ワールドカップを通じて、日本と韓国の間で色々な交流が急速に深まってきました。本当に感慨深いものがあります。韓国の声楽家たちはとても高いレベルを持っているにもかかわらず、ちょっと前までは、なかなか日本で紹介してもらえませんでした。それが、ワールドカップ開催ということもあって、たくさんの韓国人の声楽家が日本で歌う機会を与えられました。
私自身もワールドカップでは、閉幕式の時に小泉首相が直接呼んで下さって、首相官邸の金大中大統領歓迎公演で日本の歌と韓国の歌を披露するという機会に恵まれました。日本と韓国というのが、私の血であり、肉であり、魂であるということで、こういう役割をさせて頂くことが出来たんだなあ、と本当にうれしかったですね。
また、昨年の日韓のサッカー親善試合では、韓国国歌を韓国のユニフォームカラーと同じ赤いドレスで歌わせて頂きました。日本側は錦織健さんが真っ青なタキシードでしたが(笑い)、そういう機会を与えられたのも、日韓の架け橋という、自分にしか出来ない世界を確立してこれたからだと思っています。もちろん、オペラ歌手としてやりたいことはたくさんありますが…。
日韓の架け橋としては、98年に東京・ソウル友好都市締結10周年を記念した公演で、日本側の親善大使としてソウルで初めて日本の歌を歌っています。
あの時は、まだ日本の歌を歌うことが韓国では禁止されていて、最後の最後までやり取りが続いたことで、大きな話題を集めました。
ただ、私個人のことを言えば、94年にソウル定都600年記念オペラ「カルメン」のカルメンをさせて頂いたことが、人生の中でも特別な出来事になりました。私は日本生まれの日本育ちで、それまで韓国に行ったこともなかったんです。ただ、父母の国のオペラハウスで主役を歌うというのはやはり1つの夢でもあったので、「カルメン」への出演はいろんな意味で人生の大きな節目になりました。
総勢400人くらいで作り上げた素晴らしいプロダクションだったんですが、演出はヴェローナでも活躍されているイタリアのフラヴィオ・トレヴィザンさん、指揮はロシア人のバクダン・ジョルダンニアさん、そしてあとはほとんどが韓国人スタッフでした。
原語のフランス語で歌い、イタリア人の演出家とロシア人の指揮者、スタッフ、オーケストラ、歌手がすべて韓国人、そしてそこに日本から私が参加した。そのみんながそれぞれの言葉で考えながら舞台を創っていったわけです。その中でも、頭の中で日本語で考えているのは私だけなのだなと思うと、とても特別な思いでした。
「先駆者」という言葉だけでは言い表せないものがありますね。
当時、日本でデビューしてから10年くらい経っていたのですが、音楽大学に入学した時も、二期会に入った時も、当時は留学生も少なく、二期会もほとんど全員が日本人という状況でしたので、韓国人としては先生も、先輩も、友達も、後輩もいないという感じだったんです(笑い)。考え方や生活が日本人と一緒でも、異邦人のような感じでした。
そんな私が初めて韓国公演で行った時には、今度は逆に向こうで異邦人という感じがしました。韓国公演では、日本で学んだ演技や踊りを非常に高く評価されたので、そういう意味では私は日本に育てられたな、と感じたものです。もちろん、自分自身の努力をしましたが、改めて「日本は故郷なんだなぁ」という気持ちにもなりましたね。
今は世界的にも人の行き来が多くなってきているので、オペラなどのプロダクションも視野をアジアに広げていかないと限度があるのではないでしょうか。
実際にオペラ「春香伝」は日本と韓国の共同制作ということで、日本のオペラ歌手の人たちも全曲韓国語で覚えて歌ったのですが、正直言って20年前だったら、日本人の歌手が韓国語を覚えて上演するというのは考えられなかったことです。
こういう経験を通じて、芸術というのはやはり国境を越えていくものだ、と改めて思いました。異なる文化を持った人間が親しくなるには摩擦もありますが、音楽、芸術というものは最終的に国境を越えるし、それらを通じて心が通じ合えるのだ、というのを再認識しました。
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このところの、拉致問題を巡る日朝関係の悪化が私の心の大きな重石になっていました。そんな時に「ふたりの海」を歌ってみたら、この歌はこの事故で犠牲になった二人だけではなく、日本と朝鮮半島の狭間で犠牲になった数多くの魂に捧げる歌としても歌えるのではないかと、今の気持ちに物凄くピッタリきたんです。それで今回、この曲を皆さんに聴いてもらうことにしました。 |
いけません、肝心の20周年記念リサイタルの話を聞かないと(笑い)。
今回のリサイタルは、第1部と第2部に分けてみました。第1部は「日韓」と「南北」ということをキーワードにしてみました。それで「ふたりの海」と「高麗山河わが愛」という歌を歌います。中でもハイライトは、日本人と韓国人が作詞して、曲を日本人が作った「ふたりの海」という新曲ですね。
韓国の歌曲「高麗山河わが愛」は、96年のアメリカ公演で歌い、それが韓国のKBS、日本のTBSなどで放映されて大きな話題を呼びましたが、もう1つの「ふたりの海」はどんな曲なんですか。
数年前、新大久保駅で線路に落ちた日本人を助けようとして韓国人の留学生と日本人カメラマンが犠牲になって亡くなってしまった事故がありましたが、その悲劇を追悼するために作られた曲なんです。
事故の直後、私にぜひ歌ってほしいとある方が持って来て下さったのですが、その時はまだ事故の記憶が生々しく、あまりの痛ましさに衝撃を受けてしまっていたので歌う気にならず、これまでずっと温めていました。
それを今、なぜ?
私自身は日韓だけでなく、南北の和解のためにもこれまで活動してきました。85年にはピョンヤンに招かれて歌っています。でも、このところの、拉致問題を巡る日朝関係の悪化が私の心の大きな重石になっていました。もう、歌うということにも戸惑いを感じてしまうほどだったんです。そんな時に「ふたりの海」を歌ってみたら、この歌はこの事故で犠牲になった2人だけではなく、日本と朝鮮半島の狭間で犠牲になった数多くの魂に捧げる歌としても歌えるのではないかと、今の気持ちに物凄くピッタリきたんです。それで今回、この曲を皆さんに聴いてもらうことにしました。
第2部では、日韓両首脳の前でも歌われた「海を越えて」を歌いますね。
私がワールドカップのために作った日韓デュエット「海を越えて」は、金大中大統領の歓迎公演でも一緒に歌ったバリトンの大久保真さんと歌います。
韓国の歌では、オペラ「春香伝」のさわりを、二期会の蔵田雅之さんと歌います。蔵田さんはオペラ上演の際に恋人役をやって下さったのですが、韓国語の歌詞を全部覚え、それを観ていた韓国大使も最初は騙されたといったくらい出来ていたんですよ(笑い)。
そして、最後にイタリア・オペラです。「蝶々夫人」の第1幕の愛の二重唱を、テノールの五十嵐修さんと、そしてアリア「ある晴れた日に」を歌って締め括ることにしているんです。
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