ソプラノ チョン・ウォルソン(田月仙)
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「海峡を越えた歌姫」 その歌は祈りとなった…
田月仙(チョン・ウォルソン)のDVD・CD

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朝鮮・韓国歌曲がオペラのアリアと同じレベルで紹介されたのは
彼女の歌をもつて嚆矢するのではあるまいか

海峡を越えた歌姫
田月仙(チョン・ウォルソン)名曲集DVD
オーケストラ伴奏の名曲集 パート1
山河を越えて・高麗山河わが愛
田月仙(チョン・ウォルソン)CD名曲集 1
オーケストラ伴奏の名曲集 パート2
鳳仙花・故郷の春
田月仙(チョン・ウォルソン)CD名曲集 2

 

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日本コリア歌曲集CD
夜明けのうた・イムジン江
ビクターエンタテイメント

 

田月仙(チョン・ウォルソン)の歩むところ

唐 十郎

 この神経質な廃都の中で、田月仙ほどの巨(おお)きな女性とめくるめく歌声をわたしは知らない。
 初めて舞台の彼女を観たのは、お茶の水にある小さな会館であったが、舞台を一歩すすんだとたんに、張り詰めたヴァリアー(膜)を抜けるように、切るように、そのアウラが現前化してくると思った。
 1997年の<薔薇物語>のパンフレットには、両手をひろげた田月仙の写真が載っており、その止まった物腰は、果てしなく伸びやかであるが、それが、舞台で動き出すと、辺りを巻き込み、観客の目を釘づけにして、とてつもなくスケールの大きな世界へ引きずりこんだ。
 その歌声は、都市の細いビル裏にも潜りこむが、海にも向かい、対岸の異国を巡って散った花、暗雲、今も迷う人々の声とも重なっていく。そして、いつか、わたしは、歌っている彼女の足並、その足元に目が吸いつけられていた。
 その立ち姿は美しい。が、そのリュウとした立ち方よりも、彼女の思いが、何を踏みしめ、震えながら何に声をかけているのかが、その魅力を解く鍵であるように思えた。
 この歌い手は、歌いつづけるべき<座標軸>を探って歩んでいる。
 この度歌われている歌詞カードを読みながら、「朝つゆ」の終章を見ると、歩みのアンソロジーとなっている二行が目にとびこんできた。
 「さあ 行こう あの荒れはてた広野へ
  悲しみをすべて捨て 私は行く」
 その前の一行は、真昼の燃える暑さが、自分にとっての試練でもあるという。
 とつぜん、わたしは、ボードレールの詩を思い出した。それは、学生時代に読んで忘れられない一つの詩であったが、「ジャンヌ・マリー」という。
 「ジャンヌ・マリーの手は黒い
  夏が 焦がした
  黒い手だ」
 <文学と悪>の中に引用されていたこのミステイフイケートな一本の黒い手が、なんの実効性を持つのか分からなかったが、田月仙の歌うその声の中に現れるとなると、なんとも嬉しい<デ・ジャヴ>(即視の夢)を感じるではないか。
 つづいて「鳳仙花」の中にも気になるものが現れた。それは、夏の日に見た乙女たちのような花びらの、変わりゆく姿を述べたものだ。
 「美しい花びらをむごくも侵せしに
  花落ち老い果てた お前の姿いたわしい」
 これは、フランソワ・ヴイヨンの「去年(こぞ)の雪、今、何処(いずこ)」の復活でもある。
 そうしてみると、田月仙の歌う悲歌(エレジー)の源は秋風に吹き飛び、忘却されていくようなものではない。
 なにもないものの所へ、誰が行くものか。この歌姫は、荒れ果てた広野へ向かう。とすれば、その踏みしめる足元から、「むごさ」や「焦げつき」に耐えた幾つもの歌の芽が伸びてくるのであろう。
 聴衆よ、
 田月仙の腕に抱かれ、その歌声に悶死しなさい。

唐十郎(からじゅうろう)劇作家

 

声楽家 ソプラノ チョン・ウォルソン(田月仙) 公式サイト Chon Wolson officilal Website  www.wolson.com

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